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『資本論』を読む会の報告

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2005年 12月 10日 ( 1 )


2005年 12月 10日

第3回 12月6日

 12月6日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第3回の学習会を行いました。前回の宿題について議論し、第2版後記の第9段落から第12段落までを輪読、検討しました。

■前回の宿題について

1.「有機体」の意味
 第11段落で「現在の社会は決して固定した結晶体ではなく、変化することの可能な、そしてつねに変化の過程にある有機体なのだという予感が、支配階級のあいだにさえ起こり始めている」と述べられていますが、「有機体」の意味が問題になりました。
 「大辞林」では「生命現象をもっている個体、つまり生物。有機体においては各部分が互いに関係をもつとともに全体との間に内面的な必然的連関をもち、単なる部分の寄せ集めではない一つの統一体をつくる。広義には、こうした有機体の本質に類比させて社会・国家・民族をもいう。〔organism; organic body の訳語〕」と説明されています。 
 ここでは、社会が固定的で変化しない「死んだもの」ではなく、変化する「生きているもの」という意味で使われているだろうということになりました。

2.「資本の有機的構成」の「有機的」とはどういう意味か 
 「有機的」とは「有機体のように多くの部分が集まって一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っているさま」のこと。
「資本の有機的構成」とは、資本の技術的構成(生産過程で機能する素材の側面から見た資本の構成)によって規定され、その変化を表現するかぎりでの価値構成(価値の側面から見た資本の構成)のことですが、ここで「有機的」といわれているのは、不変資本と可変資本が「一つの全体を構成し、その各部分が密接に結びついて互いに影響を及ぼし合っている」からだと考えられます。
  
 資本の技術的構成=(充用される生産手段の分量)/(充用される労働の量)

 資本の価値構成=(不変資本)/(可変資本)

   不変資本=生産手段の価値  可変資本=労働力の価値
  
 資本の価値構成は、資本の技術的構成が不変でも、生産手段および労働力のそれぞれの価値または価格の変動によって変化することに注意しておこう。つまり、資本の価値構成が変化したことは、必ずしも資本の技術的構成が変化したことを意味するわけではありません。
 
■第2版後記について

1.普仏戦争 (第4段落)
 1870年から71年に行われた、プロイセンを中心とするドイツ諸邦とフランスとの戦争。ドイツ統一を進めるプロイセンと、それを恐れるナポレオン三世が対立し、スペイン王位継承問題を契機に開戦。プロイセンが大勝し、アルザス-ロレーヌなどを獲得。戦中、ドイツ帝国が成立しドイツの統一が完成。また、フランスでは第三共和制が成立した。

2.ドイツ統一の歴史 (第4段落)
 「きわめて早くケルト人など先住民族を駆逐してヨーロッパに広がったゲルマン人のなかから民族大移動期を経て,次第にドイツ人諸部族が形成された。カール1世のフランク王国が843年3分裂,東フランク王国が成立した時から国家としてのドイツの歴史が始まる。962年オットー1世の戴冠(たいかん)で神聖ローマ帝国が生まれたが,教皇権の介入などで国内統一はむずかしく,13世紀以降帝権は衰退,選帝侯制度が始まり,封建諸侯の割拠時代に入った。15世紀以後ハプスブルク家が君臨したが,宗教戦争,三十年戦争を経てプロイセンが台頭,ナポレオン時代にはその支配下に置かれ,ウィーン会議の結果,1815年ドイツ連邦が成立した。1848年の三月革命は失敗したが,ビスマルクの登場でプロイセンは強大化し,普墺戦争と普仏戦争の結果,プロイセンの指導下に,1871年ドイツ帝国が成立した。」(マイペディアの項目「ドイツ」より)

3.ドイツにおける資本主義発展の特徴 (第5-6段落)
 ナポレオンの侵攻によって、1806年に神聖ローマ帝国は滅亡。300あまりの領邦は約40の中規模国家となりました。フランス軍の侵入が契機となって、プロイセンを先頭に近代化への動きが始まりました。1834年にはドイツ関税同盟が締結され、ドイツ統一へ動きが強まります。の1835年から鉄道の建設が始まり、40年代からは産業革命に突入。1848年にはプロイセンとオーストリアで革命が起こり、成功はしなかったものの反動の親玉メッテルニヒを失脚させました。こうしてプロイセンの工業化も急速に進み始めました。
 綿紡績の紡錘数は、1748年から75年までに約3倍に、石炭の生産量は48年から70年までに約6倍に増加。しかし、イギリスと比べると発展は遅れており、綿織物工業ではイギリスでは1840年頃までにほとんどが力織機になっていましたが、プロイセンでは1875年になってもまだ手織機の法が多かったという状態でした。
 1867年にプロイセンが中心となって北ドイツ連邦が結成され、71年にはドイツ帝国となって統一が達成されます。(浜林正夫著『『資本論』を読む〔上〕』の「Q&A・マルクスの時代のドイツはどういう状態だったのですか」(32頁~33頁)をもとにまとめました)
4.古典派経済学の主要な代表者と特徴 (第7段落)

 資料として林直道編『経済学名著106選』の「経済学説の系譜図」とぺティ、スミス、リカードウ、シスモンディの項が紹介され、簡単に内容を確認しました。

古典派
 古典学派,正統学派とも。経済学の創始者であるA.スミス,マルサス,リカード,ミル父子らを代表者とする経済学者の総称。マニュファクチュアから機械制大工業への資本主義の発展に伴い,その経済関係を分析,労働価値説を基本に,価格,賃金,利潤,利子等の重要概念を究明。資本主義社会を永遠と考え,また利潤等の根源の究明に失敗したが,封建的束縛の廃止と資本の自由な発展とを社会進歩の立場で分析した功績は大きい。 (マイペディア)

ケネー 1694-1774
 フランスの経済学者・医者。1718年医師開業,1749年宮廷侍医となり,ルイ15世の侍医もつとめた。また経済学も学びベルサイユ宮殿内で社会・経済問題を論じた。《フランス百科全書》にも執筆。経済の循環過程を全体的に捕らえた《経済表》(1758年)を公刊し,社会科学としての経済学は彼に始まるといわれる。農業を富の源とする重農主義の基礎を築く。 (マイペディア)

スミス 1723-1790
 英国の社会科学者。古典派経済学の創始者。1751年―1763年グラスゴー大学教授,1787年同大学総長。主著《国富論》(1776年)は経済学最大の古典である。経済行為は利己心を動機とするが,利己心は同感(利他心)という社会的原理を通しておのずから自然の秩序,公共の福祉をもたらすとして,資本主義経済の法則性を追究し,富の源泉を労働に求める労働価値説,労賃・利潤・地代の決定理論などを展開して経済学の基礎を築いた。利己心の自由な発動を唱える自由主義思想は,国家の経済干渉を排し,国防・司法・公共事業だけを国家の任務とする夜警国家論に導く。別著《道徳情操論》(1759年)は,同感の得られぬ行為は道徳的でないとする道徳の基準を論じ,経済学で論じた利己心の根底を貫く思想を示す。法律,芸術,天文学などの領域も研究した。 (マイペディア)

マルサス 1766-1834 英国の古典派経済学者。人口増加が貧困と犯罪の原因と説く《人口論》の著者として有名。地代の騰貴は資本蓄積や人口増による耕地拡張から生ずるもので,地主の利益は社会全体の利益に沿うと説き,過剰生産を防ぐため地主の不生産的消費が必要と唱えた。 (マイペディア)

リカード 1772-1823 英国の古典派経済学の大成者。富裕な商人の子で,14歳から株式仲買に従事し富と名声を得た。穀物法改正問題に際して自由貿易論の立場から経済学を研究し,主著《経済学および課税の原理》(1817年)を公刊。同書でスミスの労働価値説を徹底させ,商品価値は投下労働量(労働時間)により決定されるとし,労働の価値(賃金)は労働者の生計費である等の重要な結論を展開した。また地代を生産物の価値に結びつけて究明し,差額地代論を唱えた。労働価値説に立って貨幣,価格をはじめ,賃金と利潤の相反関係等を一貫して究明し,古典学派の最高水準に達した。1819年以降下院議員。前記のほか《地金の高価》(1809年)等の論著がある。 (マイペディア)

ミル 1773-1836 英国の思想家,経済学者。J.S.ミルの父。ベンサムの友人で,彼の功利主義哲学を普及させ,それを心理学的に基礎づけ,またリカードの経済学の通俗化に寄与した。《イギリス領インド史》(1817年―1818年)を著し,晩年東インド会社に就職。主著はほかに《経済学要綱》(1821年),《自伝》(1873年)など。 (マイペディア)

ミル 1806-1873 英国の哲学者,古典学派経済学者。J.ミルの長男で幼年より天才教育を受けた。長く東インド会社に勤務。功利主義運動に従事したが,功利哲学に疑問をいだき一種の理想主義に転じ,功利哲学の演繹(えんえき)法に対して実証的な帰納法の論理をも展開する《論理学体系》(1843年)を著し,その方法を適用,リカードを修正して《経済学原理》(1848年)を執筆した。労働価値説を離れ生産費説を採用,一時は賃金基金説を説く。また生産と分配を切り離し,前者は自然法則に従うが,後者は共同意志で変え得るとして社会改良を唱えた。《自由論》《婦人の隷従》《自伝》等も著名。フランスのアビニョンで死んだ。 (マイペディア)

5.神聖同盟 (第8段落) ウィーン会議後の1815年ロシア皇帝アレクサンドル1世の提唱でロシア・オーストリア・プロイセン3国君主間で結ばれ,後に英国・オスマン帝国・ローマ教皇を除く全ヨーロッパの君主が加わった同盟。四国同盟はその執行機関の意味を持っていた。キリスト教精神に基づき,諸君主が兄弟のごとく協力して永遠の平和を保つべきことを定めたものだが,実際にはウィーン体制の維持・強化と革命運動弾圧のために利用された。(マイペディア)


ウィーン会議 
 ナポレオン戦争後のヨーロッパ政治の再編のため1814年―1815年ウィーンで開かれたヨーロッパ諸国会議。フランス代表タレーランが主張する正統主義の立場から革命前の状態の復活を目ざしたが,会議を指導した英,露(アレクサンドル1世),オーストリア(メッテルニヒ),プロイセンの4大国の利害が対立して会議は難航した。ナポレオンのエルバ島脱出・帝位復帰事件(百日天下)を機に妥協が成立,1815年6月9日最終議定書(ウィーン条約)調印。1.フランス・スペイン・ナポリ・サルデーニャ・教皇領では旧王家が復位,2.ロシアはポーランドを,プロイセンはザクセン北半分とライン地方を,オーストリアはチロル,ザルツブルク,ベネチア,ロンバルディア,トスカナなどを,英国はケープ植民地,セイロン島など海外植民地を,オランダはベルギーを獲得,3.スイスは永世中立を保障され,4.ドイツ諸国はドイツ連邦を結成した。 (マイペディア)
 
6.穀物法 (第8段落) 英国で穀物の輸出入を規制するために制定された法律。起源は中世にあるが,1815年ナポレオン戦争後地主保護のため安価な外国産穀物の輸入を禁じたものが最も有名。これに対して1839年以来コブデン,ブライトら自由貿易論者を中心とする反穀物法同盟が反対運動を展開し,1846年廃止された。
(マイペディア)

7. 「1830年になって、一挙に事を決定する危機が現れた」と書かれているが、どんな事件のことを指しているのか。 (第8段落) 
 ブルジョアジーが権力を握ったフランスの7月革命のことだと思われる。

七月革命 
 1830年7月,フランスで1814年の王政復古以来の正統ブルボン王朝が倒された革命。シャルル10世治下,旧貴族を中心とする保守派とブルジョアジーを基盤とする自由主義派が対立していたが,1830年国王が出版の自由を制限し選挙法を改悪したことから,パリ市民が蜂起(ほうき)。バリケードが築かれて市街戦となり,シャルル10世は亡命しルイ・フィリップの七月王政が始まった。 (マイペディア)

七月王政
 1830年フランスの七月革命で成立したルイ・フィリップの王政。立憲君主制下に制限選挙制をしき,大ブルジョアジー,金融資本家が支配した。この間産業革命が始まり産業ブルジョアジーの興隆と労働運動の発生がみられた。その結果1848年の二月革命で七月王政は倒れた。 (マイペディア)

■議論や出された疑問

 第9段落の「ブルジョアジーはフランスとイギリスではすでに政治権力を獲得していた。そのときから、階級闘争は、実際的にも理論的にも、ますますあからさまな険悪な形をとってきた。」の階級闘争とは、どの階級とどの階級の間の闘いの事かという疑問が出されました。ブルジュアジーの政治権力の獲得までは、封建勢力(貴族など)とブルジョアジー・労働者階級の「三つ巴の闘い」、主として封建勢力とブルジョアジー間の闘いだった。しかし、ブルジョアジーか権力を握り支配階級となった後には、主要な闘いはブルジュアジーと労働者階級の闘いとなったのではないかとの発言がありました。

 また、第9段落で古典派経済学を「科学的な経済学」「私利を離れた研究」「とらわれない科学的探究」とマルクスが評価していることを確認しました。

 第10段落の1848年の革命について調べることになりました。

 第11段落の「フランスやイギリスでは資本主義的生産様式の敵対的性格がすでに歴史的な諸闘争によって騒々しく露呈されたのちに、ドイツではこの生産様式が成熟に達した…」とあるが、ここで述べられている「歴史的諸闘争」とは何かという疑問が出されました。労働者の闘いだろうということになりました。当日は具体的な事件名などは挙げられませんでしたが、フランスにおける7月王政の下でのストライキや183年のリヨンでの絹織物工の蜂起、イギリスにおけるチャーチスト運動などがあげられます。

 第12段落で出てくるバスティアとはどんな人物かという疑問が出されました。

by shihonron | 2005-12-10 14:53 | 学習会の報告