1 2006年 03月 30日
3月28日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第13回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 3 等価形態」の第7段落から第11段落までを輪読、検討しました。 ■内容要約と議論 第3節 価値形態または交換価値 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 3 等価形態 第7段落 (第6段落で価値表現においては、他の商品の現物形態の皮を自分自身の価値形態にしなければならないということの理解のために重さの尺度のことが述べられたが)類似はここまでである。鉄は、棒砂糖の重量表現では、両方の物体に共通な自然属性、それらの重さを代表している。――、ところが、上着は、リンネルの価値表現では、両方の超自然的属性、すなわちそれらの価値、純粋に社会的な或るものを代表しているのである。 ●価値について「超自然的属性」「純粋に社会的な或るもの」と述べていること、「或る物」ではなく「或るもの」と書かれていることに注意しておこう。 第1節では次のように述べられていた。「そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表しているのは、ただ、その生産に人間労働力が支出されており、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなそれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値――商品価値なのである。」(国民文庫77頁、原頁52)」 第8段落 ・ある一つの商品、たとえばリンネルの相対的価値形態は、リンネルの価値存在を、リンネルの身体やその諸属性とまったく違ったものとして、たとえば上着に等しいものとして表現するのだから、この表現そのものは、それがある社会的関係を包蔵していることを暗示している。 ・等価形態については逆である。等価形態は、ある商品体、たとえば上着が、このあるがままの姿の物が、価値を表現しており、したがって生まれながらに価値形態をもっているということ、まさにこのことによって成り立っている。 ・いかにも、このことは、ただリンネル商品が等価物としての上着商品に関係している価値関係のなかで認められているだけである。 ・しかし、ある物の諸属性は、その他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけなのだから、上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。 ・それだからこそ、等価形態の不可解さが感ぜられるのであるが、この不可解さは、この形態が完成されて貨幣となって経済学者の前に現れるとき、はじめて彼のブルジョア的に粗雑な目を驚かせるのである。 ・そのとき、彼はなんとかして金銀の神秘的な性格を説明しようとして、金銀の代わりにもっとまぶしくないいろいろな商品を持ち出し、かつて商品等価物の役割を演じたことのあるいっさいの商品賤民の目録を繰り返しこみあげてくる満足をもって読み上げるのである。 ・彼は、20エレのリンネル=1着の上着 というような最も単純な価値表現がすでに等価形態の謎を解かせるものだということには、気がつかないのである。 ●「リンネルの相対的価値形態」とあるのは、「リンネルの相対的価値表現」と読み替えることはできるのだろうかという疑問が出されました。問題になっているのは、単に価値表現だけではなく、相対的価値形態と等価形態を対比させながらその特色を述べているところなのだから、やはり「相対的価値形態」でないとまずいのではないかということになりました。そして、相対的価値表現では、相対的価値形態は等価形態を前提していることも再確認しました。 ●「この表現そのものは、それがある社会的関係を包蔵していることを暗示している」とはどういうことかとの疑問が出されました。「この表現そのもの」とは、たとえば「20エレのリンネル=1着の上着(20エレのリンネルは1着の上着に値する…20エレのリンネルの価値は1着の上着である)」のことだろう。ここでは、20エレのリンネルの価値は、1着の上着の使用価値によって表現されている。リンネルは他の一商品(上着)に関わることなしには自分の価値を表現することはできない。こうしたリンネルの他の商品との関わりは、社会的関係なのだということではないかという意見が出されました。 ●「ある物の諸属性は、その他の諸物にたいする関係から生ずるのではなく、むしろこのような関係のなかではただ実証されるだけ」であるという見解は正しいのかという疑問が出されました。マルクスは「上着もまた、その等価形態を、直接的交換可能性というその属性を、重さがあるとか保温に役だつとかいう属性と同様に、生まれながらにもっているように見える。」ということの理由として述べているのだが、あくまで「見える」であつて実際には、上着は生まれながらに等価形態を持っているわけではない。こういう見解は正しいとはいえない(いつでも当てはまるわけではない)ということになりました。たとえば、太郎と花子という夫婦がいるなら、花子は太郎の妻ではあるが、花子は生まれながらに太郎の妻であったわけではない。 ●「等価形態の不可解さ」について述べられ、後の場所では「等価形態の謎」という言葉が出てくるが、その内容はどういうものかとの質問が出されました。これについては「等価形態におかれる商品の自然形態が、そして発展すれば金銀の自然形態が、直接的な交換可能性というまったく社会的な性質を生まれながらにもっているように見える、ということ」(久留間鮫造)と理解できるという結論になりました。 ●注21に出てくる「反省規定」とはどういう意味かとの疑問が出されました。 ネットで次のような見解を見つけました。 【この考え方は、わたしたちが自明のものと考え実体化してしまっている「自分」を、他者との関係において捉えるという点で――つまり、項に対する関係の第一次性を提示している点で――画期的なものだ。しかし、このような発想はマルクスやレーヴィトのようにフォイエルバッハの系譜にある哲学者たちにしばしば見られるものでもある。たとえば、すでに引いたマルクスの一節にも明らかにその発想がある。「およそこのような反省規定というものは奇妙なものである。この人が王であるのは、ただ、他の人びとが彼に対して臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、かれが王だから自分たちは臣下なのだとおもうのである。」▼24ここで「反省規定」と訳されているのは、鏡の照らしあいのように相互に規定しあう事態をさしている。ここはむしろ「反照規定」というべきだろう。反照規定はリフレクションの第一水準であり、社会を可能にする根源的な事実である。ここからいっさいの社会は始まるのである。 ▼24 カール・マルクス『資本論1』岡崎次郎訳(国民文庫一九七二年)一一一ページ。】 野村一夫 ソシオリウム【社会学の学習展示室】より引用 【「意志は、1)純粋な無規定性、つまり自我の自己内への純粋な反省(=反照)という要素を含む。ここでは、どんな制限も、自然や欲求や欲望や衝動によって直接に現存している内容も、あるいは何によってであろうと、与えられ規定されている内容も、解消している。これが、絶対的抽象あるいは普遍性という無制限な無限性、自己自身の純粋な思惟である。」(『法の哲学』) 上村芳郎「村のホームページ」より引用 第9段落・等価物として役だつ商品の身体は、つねに抽象的人間労働の具体化として認められ、しかもつねに一定の具体的有用労働の生産物である。つまりこの具体的な労働が抽象的人間労働の表現になるのである。 ・たとえば上着が抽象的人間労働の単なる実現として認められるならば、実際に上着に実現される裁縫は抽象的人間労働の単なる実現形態として認められるのである。 ・リンネルの価値表現では、裁縫の有用性は、それが衣服をつくり、したがって人品をもつくるということにあるのではなく、それ自身が価値であると見られるような物体、つまりリンネル価値に対象化されている労働と少しも区別されない労働の凝固であると見られるような物体をつくることにあるのである。このような価値鏡をつくるためには、裁縫そのものは、人間労働であるというその抽象的属性のほかはなにも反映してはならないのである。 第10段落 ・裁縫の形態でも織布の形態でも、人間の労働力が支出される。それだから、どちらも人間労働という一般的な属性をもっているのであり、また、それだから、一定の場合には、たとえば価値生産の場合には、どちらもただこの観点のもとでのみ考察されうるのである。こういうことは、なにも神秘的なことではない。ところが、商品の価値表現では、事柄がねじ曲げられてしまうのである。たとえば、織布はその織布としての具体的形態においてではなく人間労働としての一般的属性においてリンネル価値を形成するのだということを表現するためには、織布にたいして裁縫が、すなわちリンネルの等価物を生産する具体的労働が、抽象的人間労働の手でつかめる実現形態として対置されるのである。 第11段落・だから、具体的労働がその反対物である抽象的人間労働の現象形態になるということは、等価形態の第二の特色なのである。 ●「等価形態の第一の特色」は「使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということ」(国民文庫108頁 原頁70)でした。 ●第9段落から第11段落で述べられている内容を理解するうえで、次のような『資本論』初版の叙述が参考になるでしょう。 【上着はリンネルの価値表現のなかでは価値体として意義をもち、それゆえ上着の物体形態または自然形態は価値形態として、すなわち、無区別な人間的労働の・人間的労働そのものの・体化として、意義をもつ。しかし、上着という有用物をつくりその特定の形態を与える労働は、抽象的人間的労働・人間的労働そのものではなくて、一定の、有用的な、具体的な労働種類、すなわち裁縫労働である。簡単な相対的価値形態が必要とするのは、一商品、たとえばリンネルの価値がただ一つの他の商品種類でだけ表現されるということである。しかし、どれがこの他の商品種類であるかということは、簡単な価値形態にとってはまったくどうでもよいことである。リンネル価値は、商品種類上着でなければ商品種類小麦でも、あるいは、商品種類小麦でなければ商品種類鉄、等々ででも、表現されることができよう。しかし、上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、つねに、リンネルの等価物はリンネルにとって価値体として、それゆえ人間的労働そのものの体化として、意義をもつであろう。しかもつねに、等価物の特定の物体形態は、それが上着であろうと小麦であろうと鉄であろうと、抽象的人間的労働の体化ではなく、裁縫労働なり農民労働なり鉱山労働なり、とにかく一定の、具体的な、有用的な労働種類の体化であり続けるだろう。したがって、等価物の商品体を生産する特定の、具体的な、有用的な労働は、価値表現のなかでは、つねに、必然的に、人間的労働そのものの・すなわち抽象的人間的労働の・特定の実現形態または現象形態として意義をもたなければならないのである。たとえば上着が価値体として、それゆえ人間的労働そのものの体化として、意義を持つことができるのは、ただ、裁縫労働が、それにおいて人間的労働力が支出されるところの・すなわちそれにおいて抽象的人間的労働が実現されるところの・特定の形態として、意義をもつかぎりにおいてでしかない。 価値関係およびそれに含まれている価値表現の内部では、抽象的一般的なものが具体的なもの、感覚的現実的なものの属性として意義をもつのではなく、逆に、感覚的具体的なものが、抽象的一般的なものの単なる現象形態または特定の実現形態として意義をもつのである。たとえば等価物たる上着のなかに潜んでいる裁縫労働は、リンネルの価値表現の内部では、人間的労働でもあるという一般的属性をもつのではない。逆である。人間的労働であるということが、裁縫労働の本質として意義をもつのであり、裁縫労働であるということは、ただ裁縫労働のこの本質の現象形態または特定の実現形態として意義をもつだけなのである。この取り違えは不可避である。なぜなら、労働生産物に表されている労働が価値形成的であるのは、ただ、その労働が無区別な人間的労働であり、したがって、一生産物の価値に対象化されている労働が異種の一生産物の価値に対象化されている労働とまったく区別されないかぎりにおいてでしかないからである。 この転倒によって、感覚的具体的なものが抽象的一般的なものの現象形態として意義をもつにすぎず、逆に抽象的一般的なものが具体的なものの属性として意義をもつのではないのであるが、この転倒こそは価値表現を特徴づける。それは同時に、価値表現の理解を困難にする。もし、私が、ローマ法とドイツ法はともに法である、と言うなら、それは自明のことである。これに反して、もし私が、そも法なるものが、この抽象物がローマ法において、および、ドイツ法において、これらの具体的な法において、実現される、と言えば、その関連は神秘的なものになるのである。】(『資本論』初版付録「β等価形態の第二の特色―具体的労働がその反対物である抽象的人間的労働になる」 (久留間鮫造『貨幣論』117-118頁より重引) 久留間鮫造氏は「上着が等価形態に置かれることによって上着の使用価値は価値体という形態規定性を新たに与えられているのだということ、そしてこの形態規定性における上着の使用価値の形態で、リンネルそれ自身の価値を、それの使用価値から区別したものとして表現しているのだということ」を強調しています。(久留間鮫造『貨幣論』123頁) ★ ちょっとひとこと 内容要約と言いながら、このところ、原文そのままを引いていることが少なくありません。価値形態論の箇所では、内容が難解であり、一字一句を丁寧に読み、考え、理解することが大切だ思ったからです。大変なところですが、がんばりましょう。(K) ■
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by shihonron
| 2006-03-30 00:00
| 学習会の報告
2006年 03月 28日
3月14日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第12回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の量的規定性」の第1段落から最後(第8段落)までと「3 等価形態」の第1段落から第6段落までを輪読、検討しました。 ■内容要約と議論 第3節 価値形態または交換価値 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の量的規定性 第1段落 ・その価値が表現されるべき商品は、それぞれ与えられた量の使用価値である。この与えられた商品量は一定量の使用価値を含んでいる。だから、価値形態は、ただ価値一般だけではなく、量的に規定された価値すなわち価値量をも表現しなければならない。 ・それゆえ、商品Aの商品Bにたいする価値関係、リンネルの上着にたいする価値関係のなかでは、上着という商品種類がただ価値体一般としてリンネルに等置されるだけではなく、一定量のリンネル、たとえば20エレのリンネルに、一定量の価値体または等価物、たとえば1着の上着が等置されるのである。 第2段落 ・「20エレのリンネル=1着の上着」という等式は、1着の上着に20エレのリンネル子に含まれているのとちょうど同じ量の価値実体が含まれているということ、したがつて等量の労働が費やされているということを前提する。しかし、20エレのリンネルまたは1着の上着の生産に必要な労働時間は、織布または裁縫の生産力の変動につれて変動する。そこで次にはこのような変動が価値量の相対的表現に及ぼす影響をもっと詳しく研究しなければならない。 ●価値実体とは労働(抽象的人間的労働)のこと。価値量は、その商品の生産に社会に必要な労働の量によって規定される。 第3段落 Ⅰ リンネルの価値は変動するが、上着の価値は不変だという場合。 ・リンネルの価値が2倍になると 20エレのリンネル=2着の上着 ・リンネルの価値が半分になると 20エレのリンネル=1/2着の上着 ・商品Aの相対的価値、すなわち商品Bで表された商品Aの価値は、商品Bの価値が同じままであっても、商品Aの価値に正比例して上昇または低下する。 第4段落 Ⅱ リンネルの価値は不変のままであるが、上着価値は変動するという場合。 ・上着の価値が2倍になると 20エレのリンネル=1/2着の上着 ・上着の価値が半分になると 20エレのリンネル=2着の上着 ・商品Aの価値が同じままであっても、商品Aの相対的な、商品Bで表された価値は、Bの価値変動に反比例して低下または上昇する。 第5段落 ・ⅠとⅡにいろいろな場合を比べてみれば、相対的価値の量的変動が正反対の原因から生ずることがわかる。 ・20エレのリンネル=1着の上着が(1)20エレのリンネル=2着の上着 という等式になるのは、リンネルの価値が2倍になるかまたは上着の価値が半分に減るからであり、また(2)20エレのリンネル=1/2着の上着 という等式になるのは、リンネルの価値が半分に下がるか上着の価値が2倍に上がるかするからである。 第6段落 Ⅲ リンネルと上着との生産に必要な労働量が、同時に、同じ方向に、同じ割合で変動するこ場合には、これらの商品の価値がどんなに変化しても、やはり 20エレのリンネル=1着の上着 である。 ・これらの商品の価値変動は、これらの商品を、価値の変わっていない第3の商品と比べてみれば、すぐに見出されるであろう。 ・かりにすべての商品の価値が同時に同じ割合で上昇または低下するとすれば、諸商品の相対的価値は不変のままであろう。諸商品の現実の価値変動は、同じ労働時間でいまでは一般的に以前よりもより多量かまたはより少量の商品が供給されるということから知られるであろう。 第7段落 Ⅳ リンネルと上着とのそれぞれの生産に必要な労働時間、したがってまたそれぞれの価値が、同じ方向にではあるがしかし同じでない程度でとか、または反対の方向にとか、その他いろいろな仕方で子変動することがありうる。考えられれるかぎりのすべてのこの種の組合せが一商品の相対的価値に及ぼす影響は、ⅠとⅡとⅢの場合の応用によって簡単にわかる。 第8段落 ・価値量の現実の変動は、価値量の相対的表現または相対的価値の大きさには、明確にも完全にも反映しないのである。 ・一商品の相対的価値は、その商品の価値が不変のままでも変動することがありうる。(Ⅱ) ・その商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても不変のままでありうる。(Ⅲ) ・そして最後に、その商品の価値量とこの価値量の相対的表現とに同時に生ずる変動が互いに一致する必要は少しもないのである。 第3節 価値形態または交換価値 A 単純な、個別的な、または偶然的な価値形態 3 等価形態 第1段落 ・一商品A(リンネル)は、その価値を異種の一商品B(上着)の使用価値で表すことによって、商品Bそのものに、一つの独特の価値形態、等価物という価値形態を押し付ける。 ・リンネル商品はそれ自身の価値存在を顕にしてくるのであるが、それは、上着がその物体形態とは違った価値形態をとることなしにリンネル商品と等しいとされることによってである。 ・だからリンネルは実際にそれ自身の価値存在を、上着が直接にリンネルと交換されうるものだということによって、表現するのである。したがって、一商品の等価形態は、その商品の他商品との直接的交換可能性の形態である。 ●リンネルの相対的価値表現において、主体として振舞っているのはリンネルであって上着ではない。「リンネルは自分の価値を上着で表しており、上着はこの価値表現の材料として役立っている。第一の商品は能動的な、第二の商品は受動的な役割を演じている。」(国民文庫94-95頁、原頁63) 上着は、リンネルによって等価物という価値形態を押し付けられるのである。 ●「価値存在」=価値であること、価値を持っているということ 第2段落 ・上着がリンネルのために等価物として役立ち、したがってリンネルと直接に交換されうる形態にあるという独特な属性を受け取るとしても、それによっては、上着とリンネルとが交換される割合はけっして与えられてはいない。この割合はリンネルの価値量が与えられているのだから、上着の価値量によって決まる。 ・上着の価値量は、上着の価値形態にかかわりなく、その生産に必要な労働時間によって規定されている。 ・しかし、商品種類上着が価値表現において等価物の位置を占めるならば、この商品種類の価値量は価値量としての表現を与えられていない。この商品種類は価値等式の中ではむしろ或る物の一定量として現れるだけである。 ●最後の部分で出てくる「或る物の一定量」とは何かが疑問として出されました。ここでの「或るもの」とは等価物商品の現物形態(使用価値)、20エレ=1着の上着という例では、上着(という使用価値)だろうということになりました。 第3段落 ・たとえば、40エレのリンネルは「値する」――なにに? 2着の上着に。商品種類上着がここでは等価物の役割を演じ、使用価値上着がリンネルにたいして価値体として認められているので、一定量の上着はまたは一定の価値量リンネルを表現するに足りるのである。したがって、2着の上着は40エレのリンネルの価値量を表現することはできるが、しかしそれ自身の価値量、上着の価値量を表現することはけっしてできないのである。 ・価値等式における等価物は、つねに、ただ、或る物の、使用価値の、単純な量の形態をもっているだけだというこの事実の皮相な理解は、ベーリをもその多くの先行者や後続者をも惑わして、価値表現のうちに単なる量的な関係を見るに至らせたのである。 ・そうではなくて、一商品の等価形態はけっして量的な価値規定を含んではいないのである。 ●「量的な価値規定」とはどういうことかが問題になりました。「価値規定」は「社会的必要労働時間による商品の価値量の規定」であり、等価物商品は使用価値の一定量でしかなく、それ自身の価値量を表してはいないということではないかとの意見が出されました。 第4段落 ・等価形態の考察にさいして目につく第一の特色は、使用価値がその反対物の、価値の、現象形態になるということである。 第5段落 ・商品の現物形態が価値形態になるのである。だが、よく注意せよ。この取り替えが一商品Bにとって起きるのは、ただ任意の一商品Aが商品Bにたいしてとる価値関係のなかだけでのことであり、ただこの関係のなかだけでのことである。 ・どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできないのであり、したがってまた、自分自身の現物の皮を自分自身の価値の表現にすることはできないのだから、商品は他の商品を等価物としてそれに関係しなければならないのである。すなわち、他の商品の現物の皮を自分の価値形態にしなければならないのである。 ●「どんな商品も、等価物としての自分自身に関係することはできない」とはどういうことか? 20エレのリンネル=20エレのリンネルは無意味な等式であり、価値の表現とはならないということではないか。 第6段落 ・尺度の例がこのことをわかりやすくする。 ・棒砂糖は物体だから重さがあり、したがって重量を持っているが、どんな棒砂糖からもその重量を見てとったり感じとったりすることはできない。 ・そこでわれわれは、その重量があらかじめ確定されているいろいろな鉄片をとってみる。鉄の物体形態は、それ自体として見れば、棒砂糖の物体形態と同様に、重さの現象形態ではない。それにもかかわらず、棒砂糖を重さとして表現するために、われわれはそれを鉄との重量関係におく。この関係のなかでは、鉄は、重さ以外の何ものをも表していない物体とみなされるのである。 ・それゆえ、種々の鉄量は、砂糖の重量尺度として役だち、砂糖体にたいして単なる重さの姿、重さの現象形態を代表するのである。 ・この役割を砂糖が演ずるのは、ただ、砂糖とか、またはその重量が見いだされるべきそのほかの物体が鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。 ・もしこの両方の物に重さがないならば、それらの物はこのような関係に入ることはできないであろうし、したがつて一方のものが他方のものの重さの表現に役だつこともできないであろう。 ・両方を秤の皿にのせてみれば、それらが重さとしては同じものであり、したがって一定の割合では同じ重量のものであるということが、実際にわかるのである。 ・鉄体が重量尺度としては棒砂糖にたいしてただ重さだけを代表しているように、われわれの価値表現では上着体はリンネルにたいしてただ価値だけを代表しているのである。 ●この例を参考に、20エレのリンネル=1着の上着というリンネルの価値表現について以下のように言うことができるだろう。 ・商品リンネルは、価値を持っているが、その価値を見てとったり感じとったりすることはできない。 ・リンネルは、自分がが価値であることを、1着の上着を自分に等置することで表現する。 ・上着の使用価値は、それ自体として見れば、リンネル使用価値と同様に、価値の現象形態ではない。それにもかかわらず20エレのリンネル=1着の上着という価値関係のなかでは上着は、価値以外の何ものをも表していない物体とみなされるのである。(使用価値としては異なっているリンネルと上着が等しいとされるのは、価値としてでしかない) ・それゆえ、種々の量の上着は、リンネルの価値尺度として役だち、リンネルにたいして単なる価値の姿、価値の現象形態を代表するのである。 ・この役割を上着が演ずるのは、ただ、リンネルが鉄にたいしてとるこの関係のなかだけでのことである。 ・もしこの両方の物に価値がないならば、それらの物はこのような関係に入ることはできないであろうし、したがつて一方のものが他方のものの価値の表現に役だつこともできないであろう。 ■
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by shihonron
| 2006-03-28 00:00
| 学習会の報告
2006年 03月 14日
3月7日(火)に『資本論』を読む会@所沢 第2期 第11回の学習会を行いました。「第1章商品 第3節 価値形態または交換価値 2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実」の第6段落から最後(第11段落)までを輪読、検討しました。 ■内容要約と議論 第3節 価値形態または交換価値 2 相対的価値形態 a 相対的価値形態の内実 第6段落 ・(直前の箇所で、上着が価値物としてリンネルに等置されることによって、上着をつくる裁縫労働は(抽象的)人間労働に還元され、リンネルを織る織布労働もまた抽象的人間労働であることが表現されることが述べられた。)しかし、リンネルの価値をなしている労働の独自な性格を表現するだけでは十分ではない。 ・流動状態にある人間の労働力、すなわち人間労働は、価値を形成するが、しかし、価値ではない。 ・それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になるのである。 ・リンネル価値を人間労働の凝固として表現するためには、それをリンネルそのものとは物的に違っていると同時にリンネルと他の商品とに共通な「対象性」として表現しなければならない。課題はすでに解決されている。 ●上着がリンネルに等置される→上着をつくる裁縫労働はリンネルを織る織布労働と等置される→裁縫は抽象的人間労働に還元される→織布もまた(裁縫と同じく)抽象的人間労働であることが表現される ●「流動状態にある人間の労働力」とは何かについて議論がありました。結論としては、これはすぐ後に書かれているとおり「人間労働」のことだということになりました。 「労働力」=能力「労働」=能力の発揮(流動化) ●「それは、凝固状態において、対象的形態において、価値になる」の「それ」とは何かという疑問が出され、「人間労働」のことだという結論になりました。 ●「物的に違っている」の意味について疑問が出され、「使用価値としては違っている」という意味だろうということになりました。 ●「課題はすでに解決されている」とはどういう意味かという疑問が出され、第3段落で述べられていること、またこの後でさらに詳しく展開されることではないかという意見が出されました。 上着がリンネルに等置される→上着は価値の存在形態、価値物として認められる→上着に等しいということによってリンネルもまた価値物であることが表現される リンネルの価値は独立な表現を与えられる(リンネルの価値は上着である) 第7段落 ・リンネルの価値関係のなかで上着がリンネルと質的に等しいもの、同じ性格のものとして認められるのは、上着が価値であるからである。それだから、上着はここでは、価値がそれにおいて現れる物、または手でつかめるその現物形態で価値を表している物として認められているのである。 ・ところで、上着は、上着商品の身体は、たしかに一つの単なる使用価値である。上着が価値を表していないことは、有り合わせのリンネルの一片が価値をあらわしていないのと同じことである。このことは、ただ上着がリンネルとの価値関係のなかではそのそとでよりも多くを意味しているということを示しているだけである。ちょうど、多くの人間は金モールのついた上着のなかではその外でよりも多くを意味しているように。 ●「リンネルの価値関係」と述べているのはなぜか? 後の箇所では「リンネルとの価値関係」という表現もある。「リンネル=上着」はリンネルの価値表現であり、この表現をつくる主体はリンネル(リンネルによる価値表現)であることからこうした表現になっているのではないだろうか。商品が他の商品にたいして、価値の点においてもつ関係を価値関係という。 ●上着がリンネルに等値される関係(リンネル=上着)のなかでは、上着は「価値がそれにおいて現れる物」、「手でつかめるその現物形態で価値を表している物」として認められる。第3段落では「この関係のなかでは、上着は価値の存在形態として、価値物として認められる。なぜならば、ただこのような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである」と述べられていた。 ●「金モール」は「芯糸に金糸をからませたモール糸。軍服などの装飾や手芸などに用いる」、「金モールのついた上着」は「軍服」をさしていると思われる。将軍も、軍服を脱いだ家庭においては好々爺であるに過ぎないといったこと。 第8段落 ・上着の生産では、裁縫という形態で、人間の労働力が支出され、上着のなかには人間労働が積もっている。この面から見れば、上着は「価値の担い手」である。 ・このような上着の属性そのものは、上着のどんなすりきれたところからも透いて見えるわけではないが。 ・リンネルの価値関係のなかでは、上着はただこの面だけから、したがってただ具体化された価値としてのみ、価値体としてのみ、認められるのである。 ボタンまでかけた上着の現身にもかかわらず、リンネルは上着のうちに同族の美しい価値魂を見たのである。とはいえ、リンネルにたいして上着が価値を表すということは、同時にリンネルにとって価値が上着という形態をとることなしには、できないことである。 ●「このような上着の属性」とは何かが問題になりました。「人間労働が積もっている」という属性、つまり「価値」のことだという結論になりました。 ●「具体化された価値」「価値体」という表現があるが、これは第7段落では「価値がそれにおいて現れる物、または手でつかめるその現物形態で価値を表している物」と述べられていた。 第3段落では「この関係のなかでは、上着は価値の存在形態として、価値物として、認められる。なぜならば、ただこのような価値物としてのみ、上着はリンネルと同じだからである。」という叙述がある。 第9段落 こうして、上着がリンネルの等価物になっている価値関係のなかでは、上着形態は価値形態として認められる。それだから、商品リンネルの価値が商品上着の身体であらわされ、一商品の価値が他の商品の使用価値で表されるのである。使用価値としてはリンネルは上着とは感覚的に違った物であるが、価値としてはそれは「上着に等しいもの」であり、したがって上着に見えるのである。このようにして、リンネルは自分の現物形態とは違った価値形態を受け取る。 ● 「上着形態は価値形態として認められる」とはどういうことかが問題になり、「上着の現物形態(使用価値)が価値の現象形態(価値がそれにおいて現れる物)として認められる」ということだろうということになりました。 第10段落 ・さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのことを、いまやリンネルが別の商品、上着と交わりを結ぶやいなや、リンネル自身が語るのである。ただリンネルは自分の思想をリンネルだけに通ずる言葉で、つまり商品語で表すだけである。 ・労働は人間労働という抽象的属性においてリンネル自身の価値を形成するということを言うために、リンネルは、上着がリンネルに等しいとされるかぎり、つまり価値であるかぎり、上着はリンネルと同じ労働からなっている、というのである。 ・自分の高尚な価値対象性が自分のごわごわとした肉体とは違っているということを言うために、リンネルは、価値は上着に見え、したがってリンネル自身も価値物としては上着にそっくりそのままである、と言うのである。 ●「さきに商品価値の分析がわれわれに語ったいっさいのこと」とは、第1節・第2節で明らかにされたこと。 第11段落 ・こうして、価値関係の媒介によって、商品Bの現物形態は商品Aの価値形態になる。言いかえれば、商品Bの身体は商品Aの価値鏡になる。 ・商品Aが、価値体としての、人間労働の物質化としての商品Bに関係することによって、商品Aは使用価値Bを自分の価値表現の材料にする。 ・商品Aの価値は、このように商品Bの使用価値で表現されて、相対的価値の形態をもつのである。 【参考】価値物と価値体との区別 価値物と価値体との区別について、『貨幣論』(久留間鮫造・大月書店)で大谷禎之介氏が『価値形態論と交換過程論』(久留間鮫造・岩波書店)での叙述について疑問を提出したのに対して、久留間氏は、【「価値体」あるいは「価値物として通用(ゲルテン)する物」と言うべきであったのを「価値物」と言ったのはぼくの大変なミスでした。だから、これからはどうぞそのように訂正して読んでいただきたいのです。】と答えています。 大谷氏が提出した疑問は以下のようなものでした。【労働生産物が商品になると、それは価値対象性を与えられているもの、すなわち価値物となる。しかし、ある商品が価値物であること、それが価値対象性をもったものであることは、その商品体そのものからつかむことができない。商品は他商品を価値物として自分に等置するこの関係のなかではその他商品は価値物として意義をもつ、通用する。またそれによって、この他商品を価値物として自己に等置した商品そのものも価値物であることが表現されることになる。約言すれば、商品の価値表現とは、質的に見れば、商品が価値物であることの表現であり、等価物とはその自然形態がそのまま価値物として意義をもつ商品だ、ということです。 いま申しました、〈その自然形態がそのまま価値物として意義をもつもの〉、これが先生の意味での「価値物」ですが、マルクスはこれをさす言葉としては、むしろ「価値体」というのを使っているのではないかと思われるのです。」(『貨幣論』97‐98頁)【「価値体」こそ、〈その自然形態がそのまま価値を表すもの〉という意味を持つ概念ではないかと思われるのです。」(同99頁) ■
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by shihonron
| 2006-03-14 12:08
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